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LPをジャケ買いして、そんな自分に酔いしれていたアホな時期がありました。
骨董通りにあった「パイドパイパーハウス」という輸入レコード店は、良質なポップス好きな私にはたまらない店で、私鉄沿線にある地元ベッドタウンから電車を乗りついて通ったものでした。お勧めのものは基本的にどれを買ってもはずれがないので全部欲しいのですが、夜遊びのための小遣い方がプライオリティが高かったため、そう広くない店内を何周もウロウロして、1枚か2枚買うのがやっとという状態でした。 今は、CDを買っても「はずれだ、、、」などと簡単に聴かなくなってしまうほど、違う意味でアホになってしまいましたが、当時は、吟味を重ね選んだLPですから、何度も繰り返し聴いたものです。ただ、LPは繰り返しかけると劣化するという思いこみがあり、買ってきたLPは、すぐカセットに録音して聴いたものです。 「LARRY JOHN McNALLY」(1981年)は、浪人時代に予備校にもいかずに過ごしていた年に発売された作品で、パイドパイパーハウスで買いました。 池袋の予備校に席を置きながらも全然まじめに通わず、今はなき池袋文芸座(今は「新文芸座」になってしまい、悲しいです。「新宿昭和館」がなくなったのも、同様にショックでした)でそれっぽい映画を観て、わかったような気分になり、そのあと原宿に出て、パイドパイパーハウスまでとぼとぼ歩いていると、目につくのは表参道を闊歩するカップルばかり。出てくるのはため息ばかりで「勉強しなきゃなぁ」とつぶやくものの、いっこうに受験勉強に身が入らないアホな私でした。 そんな夜に「LARRY JOHN McNALLY」を聴くと、黒っぽいテイストながら、哀愁をさそう曲もあり、へこんでるココロにフィットしました。 翌年、どうにか大学に潜り込みますが、世は「ネクラ」を否定する流れで、ウエットなココロを封印して、精一杯「明るい大学生」を演じていました。ウエットさゆえに好きだった「LARRY JOHN McNALLY」も、女の子とドライブする車でかけるときは「テンポが良くて、夜のドライブにあうんだよね」と180度違う能書きがつくことになり、その身勝手さを、今はLARRYに謝りたいところです。 #
by ahona-ango
| 2006-01-21 14:39
| あの頃行ったなぁ
同じ内容のブログをgooブログでやっていましたが、引っ越してきました。
アメブロに引っ越し中でしたが、エロTRが多すぎの上、自由がききません。 exciteのテンプレートの良さに惚れての引っ越しです。 今度は、長く続けられるかな、、、、 PS:これ以前の書き込みは、前のブログのものを機械的に移したものです。 #
by ahona-ango
| 2006-01-14 16:48
| Blog
カラオケが好きです。初めてカラオケに触れたのは、70年代後半、高校生の頃でした。
その頃は、スナックで8トラテープを使って歌うのが主流で、もちろん演歌が中心でした。もう一つのブログで触れているように、その頃からスナックに出入りしていた私は、必死になって演歌を覚え、ママに喝采を浴びようとアホな努力をしていました。 長らくおじさんのものだったカラオケが若者に受け入れられ始めたのは、80年代末期の「ヤングカラオケ」の登場です。おしゃれな内装のバーレストランに、ステージがついている作りで、軽妙なMC(従業員)に紹介され、ステージで歌うことのできる店が六本木に登場し、一挙に流行りました。その後、90年代にはカラオケボックスが台頭し、カラオケは、今のようなポジションになった次第です。 私のカラオケは、声量でごまかすタイプのもので、真剣に「うまくなりたい」と思っていましたが、やはり、努力だけでは難しいようです。そんなとき「こんな声だったら、いいのにな」と思って憧れていたのがMichael McDonaldです。Steely Danはもちろん、その一派のミュージシャンはご贔屓で、Steely Danのアルバムでコーラスをしている彼の声を最初に聴いたとき「なんという魅力的で特徴のある声なんだろう」と思い、一発ファンになりました。その後、Doobie Bros'を経て、ソロデビュー1枚目のアルバムが、If That's What It Takes(1982年)です。 カラオケは相変わらずうまくなりませんが、煙草と酒のやりすぎで、声が枯れてきた昨今、彼の声に近づいたつもりで、アフターにカラオケに行ってキャストに聴いてもらいます。しかし、ほとんど興味を持ってもらえなく、大枚払って、べそかいて帰る日々です。 やはり、上辺だけを追っかけるアホは、もてないのでしょう、、、、、 #
by ahona-ango
| 2006-01-14 16:34
| あの頃行ったなぁ
さて、今日はクリスマスイブ。皆さんはいかがお過ごしになるご予定ですか?
今では「はずかしいものベスト10」に入ると思われる「"マイベスト”カセットテープ」ですが、私がアホだった頃は、カーステレオの必須アイテムでした。 大学時代にCDが登場するまで、アルバムといえば当然LP、、、といっても通じないかアナログ盤といわなきゃならないのかな、でした。このLP、その記録容量が片面20数分しかないため(と思いこんでるのですが、違うかなぁ)、今のようにアルバム1枚1時間以上などということにはならず、テープに落とすときは、だいたいは45分で十分でした。 カセットテープもアルバム同様2面に録音できるので、それぞれの面にアルバムの「A面」「B面」と分けて録音したものです。そこで一番使ったのが『45分カセットテープ』です。 この45分テープを使用して、この時期、制作に勤しむのが「クリスマスベスト」です。私の場合、A面を邦楽、B面を洋楽と決めていて、B面の最後に必ず入れていたのが「EAGLES」の「PLEASE COME HOME FOR CHRISTMAS(二人だけのクリスマス)」(1978年)でした。典型的なロッカバラードで「ラストを飾るのに相応しい曲だ」と悦に入ってるアホな私でしたが、こういった思いこみがマイベストカセットテープをはずかしいものベスト10にランクインさせる要素なんでしょう。 A面のオープニングは、当然のことながらYumingの「恋人がサンタクロース(アルバム「SURF&SNOW」)」(1980年)でした。A面のラストは、恋人がサンタクロース同様、今は定番となっている山下達郎の「クリスマス・イブ(アルバム「MELODIES」)だと思うでしょうが、クリスマス・イブは、1983年発売なんで、大学の後半からしかこの曲は登場しません。 私がアホだった頃は、クリスマスはクリスマスなんですが、「過熱」した感じはありませんでした。「クリスマスは赤プリにお泊まりが、当然でしょ」なんていうことになるのは、サラリーマンになりバブル経済から以降の話です。バブル崩壊以降、こういうこと宣うのは「?」という空気ができて、男子一同、ホッとしてますが。 今夜は、独り身の私は「ルドルフ」を見ながら自宅で飲むつもりです。この人形アニメーションは1962年にアメリカで、TV用に撮られたものです。クリスマスには毎年必ず放映され、アメリカでは「クリスマス定番もの」となっています。「♪真っ赤なお鼻の〜トナカイさんは〜」という曲は、実はこのアニメーションの主題歌で、毎年、人気のアーティストが歌い、人形アニメになっています。今年はdestiny's childが登場しています。 では、ハッピーメリークリスマス! PS:今回から文体変えてみました、、、(苦笑) #
by ahona-ango
| 2006-01-14 16:23
| あの頃いろいろあったなぁ
大学1年の夏、渋谷の「TOP DOG」でバイトをしていた。自由が丘が本店のレストランパブである。ある70年代後半のTOP DOGは、サーファーの集まる店として文字通りTOPに位置しており、JJの読者モデルが「学校のあとは、彼とTOP DOGでお茶します。そんな時はクレージュのニットに、、、」なんて紹介されるような店だったのだ。
しかし、私がバイトをした夏の頃は、先を走るヤツからは「そういえば、そんな店あったな」という感じになっており、客もJJよりnon・noを読むような客、、、このニュアンス、伝わるだろうか?それまでニュートラファッション誌は、JJが独走しており(CanCamはこの年に創刊された)、ファッショントレンドも今ほど多様化していなかったので、JJ=いけてる子、non・no=地味目な子、an・an=個性的な子という図式が成り立っていた、、、がかなり多くなっていた。しかし、働いているスタッフは、それなりにいけており、私も「その仲間に入りたくて」バイトしたアホなのだ。だからその時点でも「俺、TOP DOGでバイトしててシェーカー振ってるんだ」という文句は、今で言えば「俺、クラブで回してるんだ」というのと同じぐらいの威力が、ある種の子=non・no的な子にはあった。 ところが、やはり私は、私である。「TOP DOGでバイト」という威力でうまくやれるはずが、全然うまくやれない夏だった。その夏に一番聴いたアルバムがJimm CliffのSpecial(1982年)である。数年前から、レゲエが通から流行りの音楽に変わり、霞町、という地名はすでにないか、、、今の西麻布に、ピジョンというレゲエクラブもできて、流行っていた。 TOP DOGのバイト仲間でマスコットガール的な存在の子がいた。顔立ちは上品できれいで、でも、かっこはサーファーで、カジュアル。性格もフランクでよい子だった。同じバイトの女の子にも人気があり、店に訪れるnon・no的な子にとっては「あこがれ」だった。 Specialを良く聴いたのも、どこかアルバムのイメージと彼女がリンクしていたせいかもしれない。当然「いいな」とちょっと惚れていたが、高嶺の花というか、社員も含めて彼女を好ましく思ってる男たちの間で「マスコットガール」という形で牽制していたこともあり、仕掛けることもできずにいた。そうしているうちに、彼女は8月いっぱいでバイトをやめた。 こうした熱い夏が過ぎ、秋風が吹き始めた9月も終わろうとしている頃、彼女が店に遊びにきた。ほどよく小麦色だった彼女の肌が、白くなっていることにびっくりしたが、それよりも驚いたのは、彼女のファッションだった。上から下まで黒ずくめ、全身ギャルソンなのだ。 このあと、デザイナーブランドブームがきて、ポパイも編集方針が変わり、私も丘サーファーからイタカジ(別途、書くつもりです)に変わった。トレンドのターニングポイントだった夏であるが、私のファッションが変わったのは、トレンドの変化でなく、彼女のせいだった。あいかわらずアホな私だ。 #
by ahona-ango
| 2006-01-14 16:16
| あの頃着たなぁ
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